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照井 隆 展
存在の安定あるいは逸脱あるいは消滅あるいは…
2006.11.22-27 ギャラリー青城(宮城県仙台市)
 
 
ほぼ完璧な自作解説(かどうかはわからない)

01今回の個展は、絵画作品の個展としては約8年ぶりである。その間グループ展等でインスタレーションなど発表してきたが、絵画作品の方は生生として制作されていたわけではなく、というよりむしろ描けなくなってしまって、何を描くべきか、どう描くべきかわからなくなってしまっていた。それをどう乗り越えてここに至ったかは別にしても、そんなことは今に始まったことではない。もう歳も歳で、描けないのならやめてしまえばいいのではないか。それが真っ当な考え方だと誰しも思うことだし思ったが、まあ昔からこれといった確固たるモチーフがあったわけでもなし、何もないなら何もないことを絵にしてしまえないだろうか、などと居直ったりしていたのだが。

生きてきたなかで何となく身に付いた思考と言うか、何故か分裂と安定、光と影、喪失と再生、存在と時間、身体と快楽、虚無とユーモアなど考えたりしているのだが、何故2つの言葉がツガイなのかはまた別の話とさせていただくが、それがどう絵に反映しているものなのか、自分でも伺い知ることもなく、ただ、それなりに絵が絵として成立するようにこころ配りつつ成立しているようにも見えず悶絶する。しかしそれならばままよいっそ絵らしくないように、などと考えたりもする。

今回の展覧会の題は、「存在の安定あるいは逸脱あるいは消滅あるいは…」である。あるいはが3つも続き、しかも…である。まだまだ続くである。いわば、本題の回避であり、逃走であり、迷走であり、はぐらかしである。存在の安定って何。それほどの逸脱も見当たらず、ましては完全に消滅する度胸もない。題名の意味するものはあらかじめ脱色されているのである。言葉は諧んじる身体運動としての滑舌の快感以上ではなく、単なるメタファーのためのメタファー、レトレックのためのレトリック、言うなれば形而上の戯れ言である。何もないのにたいそうな題名をこしらえて、難しそうなことを考えているふりをしているだけって友人に片い当てられても何も言い返せない。

前言を簡単に翻すようではあるが、今回の作品群には原初的なとっかかりとしてのモチーフがあった。それは家である。人間存在の安定の基礎となるのは家ではないか。構造物としてのハードとしての家はもちろん精神としての家というものでもあることは当然である。しかし何故家なのかは十分に説明しがたい。もしかして阪神淡路大震災がきっかけだったかもしれない。絵が描けないことからのリハビリのためにたまたま印象の強い記憶の中からアウトプットされただけのとりあえずのでっち上げとまではいえないかもしれないが、それに近いものであったかもしれない。あるいは出来上がった絵からの印象でそれらしいモチーフを後づけでこしらえただけのものかもしれない。だからあまり深追いしないでほしいのではあるが、それなりにここ数年に起ったあるいは起りつつある事象によってモチーフを強化することはできる。家は、天災、テロリズム、戦争、飢餓、ウイルス、核兵器、エネルギー、環境、労働、家族の崩壊、その他…、さまざまな脅威にさらされている。家は物質的にも精神的にも揺さぶられ続けている。人間の庇護たるべき家は瓦解寸前なのである。果たして21世紀初頭にこのような事態に至るとは。予想はしていたけれど。しかし家が完全になくなってしまうことはない。それは歴史の必然で、いつの時代にも起こりえた普通の事象なのかもしれない。たとえ試験管が家のメタファーになろうとも意味を上塗りしながら存在し続けることだろう。

私の絵の画面は、水平と垂直の安定的形象の構成を基礎としつつ、解体し、再構築し、また安定を志向するものだと思われる。重力の成す力の安定的充足を基盤としつつ精神の逸脱を加速するかのような身体的身振りのいきよいのなすまま放り出される運動としての筆跡、しかしながら解放しすぎた力を修正する小心さからくるいささかみみっちい充足の止め跡。確信が持てない筆は幾度も試されるしかない。そんなことの繰り返しは、ずいぶんと凪のような景色になることもあり、完成したかと思う間もなく発作のように逸脱の無頼を行使したりしても堂々巡りの袋小路の壁塗りの行為に似て、身の置き場を自ら埋没させる自滅の上塗りを繰り返すのみである。それでもそれなりに出来上がるものは、何となく、ぶっきらぼうに、四角的なものや植物の断片のようなものが羅列して浮遊するばかり。これが家なのか。あるものは砂塵の中の戦車のようにも見え、四角から連想すれば棺桶のようにも。それはつまり家であったものの残像の痕跡の痕跡、意味を剥奪される暴力の中でたたずむ何かであり、ただ何もない抜け殼そのものが表出されているのであれば、目論見のひとつが成功ということになるかどうかはまたまた別問題にしても、すべては、思考錯誤の成れの果て、おためごがしのための誘導尋問ということになるかもしれない。つまりは、これはこれで、不格好ながら、僕の精神の均衡を約するもので、自身の存在の安定に寄与するものあればこれ以上ない幸いなのだが、しかしやっぱりますます不安のただなかにおきざりにされるだけだったりして。

2006年11月


 
 
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