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照井 隆 展
偶景×fragment   
2012.07.24-29 SARP(宮城県仙台市)
 
 
偶景×fragment
01アクリル、色鉛筆等による絵画、新作F130号から小品まで10点位の抽象絵画作品展示しております。自分の意識の流れの中にたち現れる自然との交感による至福や様々な事象によせる思考と感情の表情を、偶然性、断片性、未完成感を造形的嗜好として意識しながら表現できないものかと試行しています。

 

(1998-2007に書いた文章から)

 夏の始まりは、すでに、終わることを予感させて始まっている。
 夏の終わりはどんな風に終わっていたんだろう。子どもの頃は、一日がとても長かったし、夏休みも長く暑かった。
 プールに飛び込んで、どれだけ長く潜っていられるか、たった一人何かを賭けるみたいに、何の意味もない行為におぼれていた。あの時間の止まったような、水の中から見上げた虚空の青。長い長い夏の空虚な時間。
 自然からだけじゃなく、何かいろんな出来事を巡って、夏の終わりのシグナルを、僕たちは確かに受け取っていた。終わりは必ずやってきていた。夏休みの宿題が全然できていなくて、もう季節の終わりどころじゃなくて、人生の終わり、先生のげんこつが目の前に浮かんでくる。こんなことなら、ちゃんと計画通りにやっておくんだった。ちょっとやそっとじゃなくて、まるでできていなかった。そんなことを考えても、もう確実に、日は経っていく。夏は終わっていくのだ。人生の終わりを考えてしまった僕は、夏の終わりを本当に身にしみて感じていたに違いない。

 大人になった僕は、季節感をなくしてしまった。あの長い(短い)夏休みがなくなったのだ。当然といえば当然かも知れない。そのかわり、子供の頃の夏の記憶が、季節のにおいを、まるでマッチをする時みたいに、一瞬の幻によみがえらせてみせる。今目の前の、ほんの小さな夏のシグナルに、何十年前の光と影をすり込ませ、見えざる夏を呼び戻しているのかも知れない。
 そして、大人の僕は、本当に夏らしくない夏を経験したり、始まったばかりの夏に、不用意に夏の終わりのシグナルを見つけてしまったりする。

 歳をとるというのは不思議な感覚だ。みんな同じなのかどうか分からないけれど、歳とともに一日は極端に短くなり、一月も、一年も、たいした長さの違いはなく、過ぎ去ってしまえば、昨日からの距離とどれだけ違うのだろうと疑問を持ってしまったりする。そんな感覚になれてしまっているのだから、十年と言っても、そんなに遠くない最近の話と言っても、あながち嘘ではないような気さえしているのである。それが、子どもの頃の時間にしたら、永遠という長さと同じように思えるくらいではないか。子どもには未来はない。目の前の一瞬に生きている。一瞬一瞬が濃密なのだ。誰が正確に計っているのか知らないけれど、その正確な時間というものに照らし合わせれば、大人も子どもも同じ時間を生きているはずなのに、その密度が違う。常に新しいことの連続がそうさせるのか。いや子どもにとっても、日々は退屈な日常の連続に過ぎない。けれども、その肉体や脳は、もはや昨日の肉体や脳ではない。生物学的にどうということが言えるわけではないが、日々成長期にある人間の細胞は、僕ら大人と比較できないくらい加速度的に変化しているのではないだろうか。そのもっとも身近な自分という器、肉体が、日々新しい何かを見せつけてくれる。その肉体は、自然、宇宙そのものであり、その宇宙は、とても静かだけど、複雑で爆発的なエネルギーを持ち、思うことも、感じることも、それはそれで一種の爆発なのではないか。宇宙が何かを思って感じている。そして、静かに爆発している。そんなイメージを思い浮かべてしまう。その一瞬と思われる時間をジャバラのように伸ばしてみれば、僕ら大人の何十時間分が一瞬に詰まっているのかもしれない。子どもにとって永遠とも言えるはるかな時間、百年の十分の1、十年。それが、僕のような中年には、記憶だけは定かではないが、ほんのちょっと前という感覚だ。ましてや、一年、一ヶ月、一週間なんて、すぐに走り去ってしまう。どの一週間も似たりよったりで、一日は終わってみればほんの一握りの短い記録でしかない。とてももったいない気がしてしまうのは、僕がまだ、子どもの感覚を身の内に持って生きているからなのかもしれない。僕は、大人になりそこねた異端者のようなものかもしれない。でも、ほんとの子どもであり続けることは不可能なこともちゃんと知っている。なぜなら、時間は、どうしても大人の感覚でどんどん過ぎ去っていくのだから。この感覚は歳とともに加速度的に進んでいくのだろう。なんだかこわい気がする。どんどん短くなっていって、一日は、起きて、食べて食べて食べて眠る。その四つの隙間にほんのちょっとの仕事をするだけだ。その間隔はどんどん短くなっていき、本当につるべ落としになって、あっと言う間に過ぎ去っていく。最後は急激に0に近づいて、一瞬のうちに…。
 
 樹木の影が濃くなり、雑草の背が、僕の腰を越えようとする。やがて来るだろう濃密な夏の空気を待機させて、いたるところで、夏の気分が充実しつつある。けれども、その群れのなかには、もうすでに実をつけ、穂を枯れさせた稲科の雑草もある。川の中洲のなかには、揺れる菖蒲や葦の全体をパンする視界の青々とした残像の中に、赤黒くただれたギシギシの実が、僕の頭の振る軌道上に引っかくようにその存在を示す。目に見える風景だけで、時間観念を瞬時に判断させられてしまうのだけれど、それは目だけではなく、自分の中の誰かが、自分の皮膚感覚、あるいはもっと違った次元の感覚、宇宙に呼応する楽器のような身体全体の感覚、思考、感情をふるわせ、その夏の湿気を含んだ空気とともにわだかまるなにものか、初めは遠慮がちに、ついには大きく意味のなさないパントマイムの身ぶりの様に、支離滅裂に手足を振って伝えようとする何かを、また同じ自分がその何かを真摯に受けとめようとする。そんな感覚器官の全受信器になって、夏のあり様を僕が僕に伝えようとする。
 そんな終わりのシグナルを認めながらも、むしろそのことによって、夏のはやる気分は一層ふくらんでいくことも事実なのだ。

 ある日突然、お節介な箱の中で、律儀な背広のアナウンサーが、幾年か続けて恒例のように口をぱくぱくして伝えてくれた。すべての暦を反故にして、僕の夏をある言葉で規定してしまうのだ。今年は冷夏なんだという。どこか知らない国の火山のせいで、太陽が隠されてしまうのだという。どっかの海の水温が高いせいでこっちの海の具合がずれているのだと言う。八月の声を聞かないうちに、夏が脆くも終わっていくのだ。今年は空振りの夏なんだ。どうしようもなくあらがう事が許されない自然、地球、宇宙の気まぐれ、あるいは必然。そんなことも経験で知ってしまっている。
 それに自分が生まれ育った夏に対する信頼感というものがある。違う土地に来て、あんまり違った夏に出会うと面食らうとともに、口惜しいくらいがっかりさせられることがある。
 とにかく寒い夏は大嫌いだ。暑ければ暑いで文句もでるが、内心はうきうきしてたまらないのだ。もうただ、夏の気分が充満しているだけで幸せなのだ。
 
 夏の始まりは、確実にある一日をもって始まる。それが、何となく数日前から予感のようなもので、いよいよ夏の到来なんだと分かるときがある。どこかにスイッチがあって、ある暗号のような気象と自分という受信器によって、予定通り始まってくれるのだ。そして、夏に起こるであろう何かに期待しながら、早く満喫しないと取り返しがつかないことになってしまう。始まってもないのに、何もかも終わってしまうぞと、何か記憶の底の方で、くるくる点滅する本能のようなものでせかされる気分は、納得しがたい気もするが、それも、夏の気分そのもののひとつだ。しかも、ほんとうに甘美な感情に満ちている。何が一体、あれほどせつなくさせるのか。そう思ってしまったら、もう僕の脳の中は、まっただ中の…。

 僕の生まれた花巻には、6月の中頃から8月の終わりまで、神社や寺に宵宮があった。町中の散らばった神様や仏様の前に、縁日がたつのです。僕の住んでいたところにも50メートルも離れていないところに、山の神神社という、土地神とでも言うのであろうか、その出自は、わからないまま今に過ぎているが、小屋のような小さな神社があり、6月のある日、毎年出店が出て、僕の家からも電気を借りて商いをするテキ屋さんもあった。家の中では、夕方早くから酒盛りがあり、上機嫌の父と客があった。夕闇が濃くなれば、玄関の提灯に明かりを入れ、母が縫った浴衣姿で、夜店をひやかして、はじからはじまで歩いた。ある年には、野外映画がかかり、夜の闇に白いスクリーンがまぶしく、蛾やいろんな虫が光に集まって、映画に集まっている僕たちそのもののようだと思った。

 その宵宮を、自分の近所ばかりでなく、あんまり遠くまでは行かなかったけど、親の許しがあれば、結構まわってみたものだ。別段何を買うためというわけでもなく、縁日に紛れ込んで、右往左往していれば、それで、なんだか楽しかったものだ。
 それに、学校では見られない同級の女の子に会えるかも知れないと言う、その頃にして、得体の知れない隠れた目的が、心の底にあったにのは間違いない。誰々ちゃんの近所の宵宮はどこそれでいつかとしっかりチェックしていたものだから。絶対に満たされることなどない淡い期待を胸に、夏の夕風を受けて出かけていった。しかし、誰ちゃんに会ったからと言って、自分から口が利けるわけではない。突然会って話す話題なんか、僕には何もなかった。それでも、子どもなりにいろいろ考えたんだろう、さりげなく、自分の存在を見つけさせようと、先回りして、知らん顔して店をのぞき込んだりした。そんなことしても、誰ちゃんは気づかずに通り過ぎて行くだけだ。ただ、そんなこと思いもよらない風に偶然に、人いきれの中で、声がとどかないぎりぎりの距離で目が合えば、それだけで最高だった。思いこみだけのただの勘違いなのだが、両思いになれたような気になったのだ。

 そんな夏が、永遠に続いて行くなら…。そんなこといつか思ったことがあった。だけど、現実は違うってこと、いつのまにか知ってしまっている。自分の部屋の窓から、いつも見ていたあの樹木の影が、いつしかしぼんで、貧しくなってしまうのを物心ついたときから毎年見ていた僕にはわかっていた。永遠の意味なんて、死者の言葉の中にしかないんじゃないかってことを。

 話は変わるが、子どもには祭りが必要だ。いや、大人にだって必要だ。
 祭りは、日常から逸脱して、非日常の舞台でのカタルシス装置として、日頃の鬱積する感情や不満、不安を一気に昇華させる役割を持っているのではないだろうか。また地域共同体の一員であることをしっかり意識することができる。
 花巻には花巻祭りがあり、9月の始め、壮麗な山車や御輿が繰り出して、それは見ごたえのある祭りとなっている。近年では、大きな観光行事として集客の担い手化が進んでいるようだが、本来祭りは、見るものではなく、やるものだ。
 花巻祭りは、各町内ごとに出される山車の華麗さと喧嘩御輿的な御輿の威勢の良さを競い合う。そのお囃子やかけ声に、感情が高揚し、クライマックスの夜の山車行列、御輿の入り乱れに、一気に異次元に登りつめる。肉体は地上を舞踊し、精神は空を舞う。ある意味では土着的な方法での精霊化であり、共同体の共鳴の中で精神は豊かに透き通って浄化され、光輝く。
 しかし僕の町内は山車は無し。御輿は親父たちの代が大暴れして禁止になっていた。きっと貧乏町のひがみで金持ちの町の御輿に喧嘩をふっかけていたんだろう。そんなこんなで、中学生のときに友達に頼んで、一度だけ他町の御輿に参加しただけだった(中断)

 

 僕は、自慢じゃないけれど、小学校、中学校を通して三回も、川でおぼれている。
 僕は、昭和30年生まれだから、僕の小学、中学時代と言えば、高度経済成長期のまっただ中であったし、父が、公務員であったことを考えれば、それほど貧乏ではなかったと言えるような気もするが、とにかく家にはお金がなかったし、こづかいも、まとまった金額でもらえたのは、中学も後半になって、ようやく月に千円くらいだったと記憶している。もしかしたら、それは記憶違いの希望的記憶というもので、実際は、まとまったこづかいなんかなくて、そのつど、どうにか頼み込んでもらっていたような気もする。小学生の時は、ただ買い食いしたさに、タンスの引き出しを引っかき回して、ようやく、10円、20円を見つけて、たまに100円とかあったら、最高の収穫だったが、金額が多ければ多いで、やはり親にばれて、こっぴどく叱られていたような気がする。
 で、川の話になるのだけれど、金のない僕らの遊びは、町の商店街なんかにいくことは到底できない相談で、近場で面白いことを考えるのが当然のことだった。もちろんテレビゲームもないし、パソコンなんて想像すらできなかった。小学校の3年生くらいになったら、テレビは一応家にやってきた。僕は一日中でもみていられたけど、家人がそんなこと許すはずもなく、特に、兄が鬼のようにおこるので、家の外で遊ぶのが当然のことだった。なぜ兄が鬼のように怒るのか、そのときには僕にはよくわからなかった。兄は、いわゆるアウトドア人間で、文明が発達していない状況であっても十分に生きていけるそんな種類の人間だった。ところが、僕といえば、こんなことを言ったら今時差別用語の死語であると女性にいわれそうだけど、いわゆる女の腐ったような男、現在的に正確に言うなら、男の腐ったやつっていうような、そんな子供だったのである。いつもだらだらして、家の仕事を手伝わない、物事をはっきり言えない。そのくせ、鏡を見るのが好きで、人に自分の自慢をする。まあ、たいした自慢ではないが、成績が良かっただの、買ってもらったピストルのおもちゃをこれ見よがしに見せびらかしたり、どうにも、「本当に」という言葉をつけて強調したいような、本当にだめな子供だったのだ。これでは行く末が案じられると兄は考えたんだろう。しかし無駄だったような気がする。今現在のこのていたらくぶりを見れば、一目瞭然である。いくら描いても売れそうにない絵を描いている。しかも、ドケチで、絵の具をちびちび出して描いているのだが、方向性がいつもぶれるから、結局一枚のキャンバスの上に、何枚もの絵を描くことになって、絵の具の層が何重にもなり分厚い絵になってしまうのだ。たっぷり使った貴重な絵の具。しかし売れないのだ。唯一誇れるのは、だめだめ生活ながら、節約に努め質素に暮らしている。パチンコなんてやらない。ギャンブルは大嫌い。常に石橋を叩いて大勝負なんかはさけてきた。こうして見ると、結局毎日低空飛行しながら、こつこつと人生の勝ち負けをさけ続けているだけではないか。ああ、やっぱり最低かも。
 で、川の話なんだけど。
 兄にとっては、川は「イッツマイライフ」って感じのフィールドで、生きる糧から生きる喜びまで、何でも手に入れられる輝かしい世界で、僕にだって、そういう関係、兄と世界との関係がとてつもなくすばらしいことであることはわかるし、うらやましく思えることなんだけど、僕にはできなかったことだ。それはどうしようもない現実だ。確かに、夏であれば水の感触は最高に気持ちいいし、草々がおい茂った岸辺を通り抜けて見た、太陽の光を反射する川面のきらめきは僕の心を切ないような不思議な気持ちにさせた。しかしそれは、あくまでも傍観者の僕が見た夏の情景の一シーンにすぎない。決してその中に入り込んで我を忘れるように夢中になって魚を殺したりしなかった。言葉を選べば魚を採取するってことか。乾いた白い砂、中州の中にできた生温い水たまり、午後の日差しは、僕に前頭葉のない生物が見る夢にもにた物語を照射する。真夏の川の情景の中の僕は、その暑さにともなう気怠さが、欲望の一種が刹那に浪費する感覚ににて、息も絶え絶えに過呼吸するオルガスムの果てに水死する幻視を見ることになる。
 つまり、溺れるって話なんだけど。
 別に泳げなかったという訳ではなかったが、3回も溺れてしまったんだから、そんなに泳ぎというか、水中が得意って訳ではなかったことは認めよう。
 で。1回目。それは、小学3年か4年生くらいだったかと思うが、その当時なぜか、シュノーケルが大流行りしていた。僕も、ご多分に漏れず、はやりものには弱いたちで、親に買ってもらったと思う。(中断)

 

 16才、160センチの小さな身体で、125ccのオフロードバイクの引きずっていた。

 125ccとはいえ、僕には結構大きかった。それに運動神経がそれほどあるわけではなかったので、結構切り回しに苦労しながら扱っていた。当時、進学校の高校1年生だった僕がどうしてバイクなんかに乗っていたか、今でも不思議な気がする。どういうわけか、父がバイクぐらい乗れないでどうする、とばかりに免許を取ることをすすめ、自動車学校に通ってまでして取得したものだ。
 そして、まわりにはほとんどバイク通学なんていない中、僕はバイクで通学したりしていた。学校は、制服はあったけど、校則というものは特別無かったような自由な学校だった。それでも、先生には決まり文句のように危ないからやめろと言われていた。自由な学校と言っても、それは勉強がちゃんとできての話だったのは後から痛切に感じたことだったけれど。
 そんなようなことで、僕とバイクの関係は、自分から求めてと言うような、そんなに濃密なものではなかったけれど、先生の言葉にも耳をかさず、それなりにバイクに乗るかっこよさのような気分を満喫していた。16才、町の映画館、中央劇場でイージーライダーを見た年でもあった。

 時間は午後11時を過ぎていた。バイクを引きずっていたのは、家族に気ずかれないためだ。家から100メートルくらい離れてからキックした。それでも近所迷惑なので、あまりふかさずに、すばやくスタートする。闇の中を一人で走った。季節は夏。住宅街を抜け、川沿いの道路に出ると風が変わった。橋を渡って街の方へ向う。誰もいない真夜中の商店街を抜けていく。とりあえず北へ。行き先なんてどこにもなかった。

 高校に入ってからの僕はとてもさえなかった。特に勉強はひどかった。進学校に入ったという優越感は、あっと言う間に劣等感にかわった。僕は英語と数学がぜんぜんできなかった。英語のグラマーで赤点を取った。赤点なんかとったら、先生は、くず扱いだ。それに生来の小心者というか、恥をかくという感覚が人一倍強く、僕を苛んだ。とにかく授業で当てられて、答えられなかったらどうしよう。間違ったらどうしよう。間違うと先生はぼろくそに言う。とにかく英語の時間が苦痛でしかたなかった。

 夏休み、僕たちはひとつの計画をもくろんだ。だけどそれは、いとも簡単に崩れさった。夏休みに自転車で仙台に行って帰ってくる。そんな小さな冒険を同じ学級の仲間で計画したのだが、僕たちはあまり成績が良くなかったこともあって、担任に止められてしまったのだ。それでも計画を実行に移すべきだったのだ。今でもそう思っている。でも、僕は担任にじかにいわれた。「今の成績で夏休みを優雅に過ごせるのか。補習だけじゃなく、それ以上に頑張らなくては、ただの落ちこぼれになってしまうぞ。」
 結局僕たちは、計画を実行できなかった。むなしさを抱いて、いつもの夏を迎えたつもりだった。16才、目の前に起こる出来事は、あらかじめ決まっていると思っていた。
 だけど、この年、信じられないような、長い長い夏休みを、与えてくれた。

 僕は、二階の窓から見える一本の木を見つめていた。その木のせいなのか、自分のせいなのかどうか分からないが、なぜこんなにむなしく刹那に悲しいのか、ただただ行き場のない気持ちをかかえたまま窓の外をながめていた。木は濃い緑におおわれ、葉が茂り、確実に夏であることを物語っていた。あの木は私だ。意味もなくそんなことを言葉にしてつぶやいたりした。自分が生きているということを、季節の変化を確実に見せるその木を、僕はいつも祈るような気持ちで見つめていた。しかし、僕は、自分が本当に生きているのか、生きながらも死んでいるのではないか、せっぱつまって感じ取っていた。それが、それからの一生の感覚を形作ってしまうとは、つゆとも知らず、生きながらに死に、死にながら生きていく、そんな感覚を初めて思い知らされたそんな夏だった。 

 7月、暑い公民館の中で、僕は、演劇の公演で、端役のひとことを発していた。
 「へい、さようでございます、かしこまりました。」
 カモメの、ヤーコフのせりふだ。特段演劇に興味はなかったけれど、友達がみんな入ったというだけの理由で、演劇部へ入部していた。初めての舞台は、チェーコフの「カモメ」。演劇の意味も知らず、演じる人物の意味も知らず、ただ、暑い夏の感覚を内に秘めながら、鈍重な召使い役を演じていた。
 演劇部には、友達だけではなく、女の存在が目の前にあった。今までにない、身近にある異性の存在の感覚。だけど、その誘惑に素直になれなかった。かたくなまでに、ストイックな自分を崩せなかった。小学、中学を通して好きだった人、高校では、女子校に行って、その時の僕では、どうしようもなく接点のない女性を、そのまま片思いを守り通すことで、自分を純な存在として、その場の正直な感覚を押し殺してしまっていた。
 恋愛というのは不思議だ。彼女でなくてはと言う感覚と、誰でもいいからという感覚のせめぎ合いの中で、結局は、自分の勇気のなさを見せつけるように、かわらない今を選び続ける残酷なゲームのようなものだった。ただ臆病なだけだったのだろう。そんな自分に巡る恋愛の季節はない。
 その反動かどうかは知らないが、次第に、冒険の極みを求めて、危ない方へ危ない方へ、惹かれてしまうことを止められはしなかった。

 16才、僕は本当に革命を夢見たのだろうか。(中断)

 

 冬のある日、僕は、都心から大学がある丘陵地帯へ向かう市営バスの中にいた。そうして、車窓の目の前にある、公園の高いもみの木を見ていた。近くで見るとびっくりするくらい大きいもみの木だ。こんな大きく高い木が、街の中でひっそりと存在しているのがとても不思議なような気がした。冬のしんとした空気の中に、じっと耐えるかのようにしていながら、存在そのものがなにか奇跡かのごとく存在するもみの木。何かの拍子で、今目にしていることが、今こうして存在すること事態が、奇跡のような気がしてくる。すべては、必然のように存在し、本当は何か理由があって存在するのに、むしろこの世は、偶然が重なってできたでたらめ世界のような気がする。そんな風に考えるのは、僕が無神論だからなのかも知れない。そもそも僕自身どうして存在してしまったか、存在という奇跡がどうして僕の身に降り立ってしまったのか、とても不思議な気がしてしまう。それほどまでに自分という存在を強く意識してしまう僕は、いわゆる自意識過剰というだけのことかも知れないが、神の存在を否定しつつ、その答えを得るのは、不可能なことなのかも知れない。もみの木は、生きるために、地中深くある根から頂上の葉先に至るまで、全身をふるわせて大気を鼓動させているに違いない。だけど、今ほんの前までは、ビルの陰にかくれて、その大きく高いもみの木も、他の木々も何も見えてはいなかった。その公園は、いわば都会のオアシスなのかも知れないが、なにか僕たちの生き方というか、人間の行き急ぎ方を遠くから、神の目で見つめているがごとくにひややかに人間界に距離を保ちつつ眺めているように思われる。自分の心の中とはいえ、僕の目の前にはいつもかくされている。僕は、何もわからないまま、ただ目の前の事情で行き急いでいるだけだ。もみの木は、人間側の事情とは関係なく、何か自然の世界における偶然だけでできている必然が織りなす秘密の世界のように、人間とは別の次元で生きているのかも知れない。人間の都合に会わせた役割を担っているように見られながら、それはただ、街の中の公園のことであったにすぎない。木々はめまいのように、その一つ一つの存在を見失うように、林とか森とか呼ばれる集合体として存在することがほんとの意味での樹木なのかも知れない。
 僕は、その公園の名前の停留所で降りた。
 公園の向こうには橋があり、僕はその橋の方へ歩いていった。僕の背後の公園の手前には歩道橋があって、その歩道橋の真ん中で車が行き交うのをながめたことがある。車をながめることに意味はあったのかも知れない。あるいはなかったかも知れない。僕の目下をゴーッゴーッと通りすぎる車を見ることにどんな意味があったのか。夕暮れの歩道橋の上で、ただ、風と光と車の音で、全身をふるえさせていただけだった。その歩道橋の高さからでも、もみの木はもっと大きく高く感じられた。黒い大きな三角錐。人間のちっぽけさをそんなもみの木で測れるとは思わないが、自分の小ささなら十分に知っているつもりだった。歩いても、立ち止まっても、とどかない何か。それが何なのか、それすらわからないまま彷徨している視線。流れる光と音の洪水。今そんな過去の光景を無音のままに思い浮かべている。
 ぼくは、そのもみの木をまわるようにしてその先の橋を歩いて渡った。川は黒々と流れ、灰色の空も映していない。
僕は冬の道で、遠い5月を思っていた。
 二十才の5月。
微熱のような暑い5月の中で、その橋を渡った河川敷近くの友人の部屋の窓先で、僕は、二日酔いの頭と身体をけだるくしびれさせていた。気持ちが悪いとは思わなかった。かえって、昼間からぼーっとしている無為の存在をきらめく陽光の中で、日だまりそのものになってしまったのごとく、人間としての生きる意味を見失ったような快楽に身をゆだねていたように思う。
 毎日そんな調子で、友人と一緒になけなしの金をかき集めて、安酒場で飲んだくれ、友人の部屋に転がり込んでは、無駄に日中を過ごしていた。
 今日は飲まないぞと誓い合ったが、夕暮れ近くになっても、自分のアパートの部屋に帰れず、うだうだしている内に、今日も、誰かの魔の一言が発せられる。「飲むか。」
その一言が、何にもまして優先されるように、すべての予定(何にもないのだが)を反故にして、金の工面を考えるのだ。かき集めて千円ちょっと。それでも、街へ行って、飲めるところを探して飲んだ。これで最後もう一本飲めるかどうか、計算しながらにたにた笑って飲んでいた。誰か金を持ってる友達を誘えれば、もっと飲める。電話をかけたり、直接訪問したりして、とにかく、飲む算段をし続けるのだ。そして、最後には、友人の部屋へ転がり込んで、ギターを弾きまくってでたらめの歌を歌い、酔いつぶれて寝てしまう。(中断)

 

 「僕の絵は分かりやすいですよ。」
 というたびに、僕の背中の空箱の中で、何かがゴトリと音をたててしまう。
 言うことがすべて言い訳になってしまう虚しさを感じて、いっそのこと、そんな、わかってしまうだとか、わからないだとかということを想定することを放棄してしまったら良いのではないか。
 その方がよっぽど健全だ。
 天気さえよければ、少しは落ちついて、平常心で絵が描けるのではないか。一日を無駄にせず、何とかキャンバスに向かえさえしたら。
 表現する意味なんて…。
 見る人に、何だか分からない何か感じてくれれば、何か、おもしろいと思って好きになってくれれば、それだけで、言葉にして返してくれなくても、良いのではないか。それだけで…。
 テーマや論理をこねくり回しても、僕の後ろに抜ける風景がすっぽりと抜け落ちて、図書館から、新しく発見してきた難しい本や古い資料の背表紙を無言のままに差し出す行為に似ているような、うつろな目を隠しながら、手の内をあかすまねをしなくても、良いのではないか。
 実はここの所は手をこうしてね、すばやく動かしてハケをたたきつけた結果なのです。(それだけを分かってくだされば)少しは、気持ちが、絵の具にのって走っているでしょう。分かりませんか。分かりませんね。そうですね、思ったよりは、気持ちが走った割には、静かな静かな表現でしかないなあと、僕も感じてはいるのです。しかし、そんな気持ちとは裏腹に、静かなる表現の、安息の色彩の陰影に自らの気持ちを従属させていくばかりなのです。最初の鑑賞者は自分自身であり、その絵に気持ちも影響されていく。最初にあったもくろみは一体どこに逃げ込んでいったのか。
 白いキャンバスに窓からの光が射して、こう描いてみたらとうながし、夕方になって、電灯をつけると、すべてが無駄だったかのごとく、何も描かなかった白いキャンバスを思い起こすばかり。
 何か描くべきものが在ったのか、わからなくなってしまった。それは思い出せないくらいのものでしかなく、大した意味を持っていなかったのかもしれない。確かなものなんてどこにもないのかも知れない。手応えなんて、まるでテレビの中の出来事のように、在ったようでいて、ほんとは何にも残っていないのだ。何もないなら、すべてを放棄して忘れ去られた方がいくらか楽かもしれない。そうすれば、自ずと、絵の世界なんて、きっと忘れてしまう。
 しかしそうはならない。小さな燃えかすのような、焦りのような断片が、切なく擦過して発火してしまう。「何もないなら、何もないことを描きなさい。」そんな意味があるのかないのかわからない小さなおきてをつくって、ただの器械体操のように偶然ばかりをたよりにしてキャンバスに向かった。描き終わって、手にはりついた絵の具を落としながら自問する。意味のない絵は本当に必要なのかと。けれども、できたものを見つめながら、思ってもいなかった跡付けの意味の韻を踏んで、次にやれることが見つかれば、それだけで明日生きることができます。
 昼間の光を刷り込んで、頭の隅に像を結んだものを、これは僕の発明だとばかりにこおどりするくらいに、スパークする夕闇のパンタグラフの火花に似た感情に支配されて、僕にできる限りの努力をせしめ、本当にそこにあるようにつくりなさいと何かが僕にうながします。僕の手を経て作り出されたものは、僕が考えたものとどうしてこんなに違うのか。イマジネーションとクリエイトが一致できれば、こんな苦しみはないんだろうけれど、それは永遠に続くことが約束されている。だけど、簡単にできてしまったら、ほんとにうれしいだろうか。そんなことはわからない。その答えは、創作することによってのみ、明日の意味が生まれてくる。
 でも、本当に毎日日課のように創作している人はこんなこと考えたりしないのかもしれない。描けない苦しみがこんな堂々めぐりの言葉の言い訳を作り出すのかな。(中断)

 

 世界の果てって、考えようによっては、
 今。この足が立っているこの場所なんじゃないかって思ってしまう。
 自分が、すべての世界から、疎外されている。
 そんなことを思うのは思い上がりなんだろうけど、
 ひとりぼっちでいることの不思議な快感。
 どうせ世界は結局僕の手の中には残らない。
 あるのは、自己と世界との測れもしない距離感だけだ。
 どうせ世界は僕を理解できない。
 僕は未完のままに、朽ちていくんだ。
 そうか、僕は悲劇の主人公になりたいんだ。
 悲しみの涙を誰のために用意しているのか。
 僕の腰に巻かれたものはあらゆるものを無に帰すための銃弾だぜ。

 「まるで苦行のようなものだな」
 「おーっと、始まったぜ」
 よれよれのワイシャツの小さなボタンが、僕の目を見ずに反論している。
 「別に何も始まってないし、何もやっていないじゃないか」

 奇妙な感慨を覚えた。金持ちに対する ー 自分は貧乏だけど精神だけはいっぱしの誇り高い人間のつもりだった。それを支えているのは少年である僕が持ち得たただ一つのもの、知性だけであったのだが、果たして、その知性が本物であったかどうかは今となってはわからない。今の僕にとって知性はなし崩しに消えてしまった古びた黒板の文字程度のものでしかない。頭を使うとしたら、多少の功名心に支えられた狡猾さを使用する時ぐらいだろうか。それとて、大して成功した試しもないのだが、きっと顔には若い時にはなかった小賢しい知恵を備えたしわが刻まれていることだろう。

 一度妥協したらおしまいだ。

 お前のための物語に語る言葉はない。

 どうせお前の頭の中にその答えは自ずから見えているはずだ。
 その不吉な目の中にお前自身が持っている運命の力がなせるものを、独楽の回転を止めてしまうように、突然の悲劇がすべてを終わらせてくれることを、あるいは、永遠に回り続ける幻夢をほとんど意味もなく、誰か親しいものが見続けることになるかもしれない。それは、あり得ないことだが、もしそうなったとしたら、この上ない幸運であったと、第三者が、伝え聞いた結末に一抹の感慨を覚えることがあるかもしれない。それもまた、この上ない幸運ということだ。幸運はどこにでも転がっている。言葉に宿るものは、幸運か無だ。無は、僕が生きていないことだから、僕は言葉を書くのかも入れない。すがりつく行為だな。あらゆる行動が、意味もなく過ぎていくのをくい止めようとする。或は悔い改めようとするために、繰り言のように言葉を、言葉の韻をイキヨイよくなぞって舌を噛むばかり。

 もうすでに用済みになったはずの言葉を、何かの神話のように、意味を見失ったまま、物語る。

 言葉もまた風化するのかもしれない。風にさらされ、陽の光に焼き尽くされて、彼方から吹いてくる島歌の旋律の中のかすかなうねりのように、言葉が意味をなさずに耳の上に吹きすさぶ何物かになって迫ってくることを。むしろ僕はそれを期待しているのかもしれない。誰か見知らぬものが歌ってくれることを。もう脈絡もなく綴られた言葉の戯れとしか言いようもない、僕が放した物語を、誰かが胸の奥に受け入れることを。

 ヒバリが鳴いていたのは何月。
 何の話をしているんだかわからないが、お前が生きていた時のことなら、もう忘れてしまったよ。たぶん、常識的に考えるなら、本州東北のただの5月の初め。僕らがただ唯一の幸福を手に入れたあの奇跡の季節。枯れ草と若葉とがないまぜの野原の天上に、歌うのではなく、嘆くようにでもなく、不思議な旋律が風になって消えていった。
 僕らの犬は駆け回りながら、小さな穴蔵を見つけては、鼻を突っ込んで豚のような鼻声を鳴らしながら興奮していた。僕はただ、ヒバリの声を聞きながら今生きていることの奇跡のような平穏を甘受していた。妻の目が何を見ていたかは、僕は知る由もなかった。僕はただ今を過ぎていくことに焦りながらも、これ以上ない妥協で犬と自然の中に身を置くことである思いを封じ込めていた。そしてその自然の不器用なまでの奇跡の形象と事象に静かな興奮を覚えながら、自分の器ですくえるものを引き出しに並べる日々を過ごしていた。

 カモシレナイ症候群の少年の意見
 結局結論のない世界で、落ち着いていられるか(気持ちはどこに)

 おれはとてつもなく抜群のバカだ。
 そういって、バカの力業で突き抜けていかなければならないんだけれど、心の奥底では、不安の芽が育ってしまっていて、なかなか刈り取れないことになっている。
 そんなおれのうざったさったらないだろう。自分でも嫌になるほどだ。空の青みに届くほどの自信満々の高揚と、自分の顔が、もちろん鏡に映っている自分の顔だけど、とても醜く思えて、奈落の底につき落ちていきたくなる瞬間との落差は、時間で計っても意味はないし、距離にしたって意味はない。ただ自分の存在の危うさってやつは、重々承知してしまえるってことかもしれない。誰かと比べてもしょうがないけど、このまま自分の使える時間が、その短さに対して超スローモーな自分の動作、つまり生き方が、どうしようもなく不自由ってことかもしれない。
 おれはとてつもなく抜群のバカだ。
 よくわからないことをうだうだと口にしている。

 愚痴だけでこの話が終わってしまう。それも運命と思えるように、ちょっとあきらめの気配がしている。

 たとえば、僕と同じような歳で、ガンや脳卒中、脳腫瘍とか、いろんな病気で死んでいく人々を知ってしまっている。天災はそれ以上に理不尽かも。僕もいつかそうなることは、何となくわかっている。普段であれば、そんなことを思うのは、ばからしいし、全然自分が死ぬなんて考えるだけ無駄だと思っている。ただ今を精一杯生きるだけが、唯一の救いだと思う。なのに、その精一杯生きる仕方がわからないのだ。わからないというのは、あまりにもバカな、愚かな考えかもしれない。とにかくやってみるしかないのだが、その仕方が、いかにも、要領よくないのだ。わざとか、えー、わざとかお前は。お前の生き方は、不器用すぎるけど。それが、かっこ良いのか。斜に構えてるのか。意味ねえ。意味ねえ言葉だ。斜に構えてるって。あらゆる世界の関係性にとって関係あんのか。つまり、そうしてしまう意味がわからないのに、そうしてしまう。つまり、生きるって難しい。難しいってことが、生きてる証か、そう思うことで慰めるか。それもまた、わからない。だから、また言葉を弄して、明日の担保を取ってるだけかも。

 いいかげん、こんなプロローグはやめて早く物語を始めて下さい。

 今やることをやってしまうのです。思いついたことをやってしまうのです。暴れる馬も馬、狂った馬も馬なのです。(了)

 


 
 
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